【小さな窓から】真夏の紫陽花

2017年7月26日

真夏の紫陽花

FUSAKO

私の住むさいたま市では梅雨明け前から猛暑日が続いた。熱風が入るので窓も開けられない。東側の道路に面して咲いている庭の紫陽花は、雨も降らず、頼みの家人からは水ももらえない中よく耐えている。淡い緑色の蕾から始まって、ブルーと紫の濃淡になり道行く人の目を留め写真の被写体にもなり、そして枯れ色になってそこにいる。渋い色も趣があるので生け花の素材に最近はなったりもしてはいるが。いつ切り花として切られてもいいわけで、いつでもピリオドが打てるというわけだ。

強い花だなと思う。人間の私はどうだろうか。いつでもピリオドが打てる状況には程遠い。先のことが心配だからか「計画」を立てるのだが、予定通りにいかないと不満がつのり、非難は外に向いたり内側の自分自身に向いたりと往生際が極めて悪いのだ。

ある年齢を超えると人間は円熟味を増すと言われる。確かに私のような単純頭でも、いろいろな経験をしてある意味で打たれ上手に少しはなっているかもしれない。また言葉の表現も以前よりは角が取れているかも知れない。しかし本当のところ、内面は成熟しているのだろうか。益々内と外とのギャップが大きくなっているだけなのではないか。内側の芯は金平糖のようにとがっていて、それをカバーするために丸く見えるほどいろんなものを巻き付けているのかもしれない。

色褪せながら、生き続けている紫陽花を見ながら感じたことである。(考えている暇があれば水やりすればいいのに!)